あおもり漁連の歴史

昭和41年~50年 1年繰上げ黒字転換

45年冷蔵庫建設、20周年も
 41年6月に就任した三津谷米吉会長(小湊漁協組合長)は、ただちに田沢事件の解明および再建計画を樹立して、計画達成に意欲的に取り組んだ。この結果、5か年計画を1年短縮して、43年に損失を解消し黒字決算に転じた。事業面では、購買において組合巡回などを積極展開、系統利用の増大を図り、販売では新規市場の開拓や鮮魚を主体とした現地組合の入札に力を入れた。44年には総取扱高が42億円に達した。

同年に水産会館の建設に着手、11月に完成した。このように再建に奔走し、誠実と情熱をもってあたってきた三津谷会長が、44年1月病気のために他界。今与造理事(小泊漁協組合長)が会長職務執行者に選ばれた。

44年6月の通常総会で杉山四郎氏(横浜町漁協組合長)を会長に選出した。この年、指導事業の一環として機関誌「あおもり漁連」を創刊。45年6月には産地冷蔵庫を建設、その完成と併せ創立20周年記念式典を盛大に行う。このころ、各事業とも飛躍的な成長を遂げた。また、公害から漁場を守る青森県漁民大会、車力のミサイル射撃場設置反対など各種問題にも積極的に取り組んだ。原子力船「むつ」問題が胎動したのもこのころである。漁連は漁民の死活問題であることから、先頭に立って反対した。49年には平内冷凍加工場を建設、総取扱高200億円を突破した。

しかし、”好事魔多し”である。ホタテ貝の生産量の急増によりその処理に苦慮し、勢い原貝販売を優先して対応を進めたため、多額の固定化債権を生ずる結果となった。これが江戸産業ほかに対しての5億円以上の固定化債権で、50年度に入り大事件として取り上げられ、再び再建の道をたどることになる。50年5月の通常総会で、杉山会長は辞任し、後任に46年6月に六漁協が合併した平内漁協の植村正治氏が会長に就任した。